思想・良心の自由 | 憲法
憲法19条では、思想・良心の自由に関して書かれている。
(憲法19条)
思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
思想と良心はまとめて同じものだと考えてよい。内容としては、心の内面に関する、絶対的な自由について書かれています。心の内面のみを理由として、裁かれないということを意味しています。
判例
謝罪広告の掲載を命ずる判決
新聞に、その記者の内面の意思とは異なる謝罪広告を行うことを求められたとしたらどうでしょうか。謝罪広告なので、そこには、その個人の良心が含まれていて、これを強制することはできないと感じる人も多いのではないでしょうか。
判例はどんな考え方をとっているでしょうか。
新聞紙等に謝罪広告を掲載することを命ずる判決は、単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明するにとどまるものであれば、代替執行によって強制しても合憲であるとしました。
(謝罪広告強制事件)
内容が、単に事実の真相を掲載するのであることと、陳謝の意を表明するに過ぎないという構成をとって、合憲としてます。
僕は、この判決は変だと思うけどね。
内申書に政治活動の内容を書く
内申書に学生が行った政治活動の内容を書くことはどうでしょうか。
麹町中学校内申書事件(こうじまちちゅうがっこうないしんしょじけん)は、日本において高等学校受験の際にいわゆる「内申書」に自己の思想に密接に関連する外部的行動が否定的に評価・記載されたことで学習権が侵害されたとする原告(保坂展人)が損害賠償を求めて起こした行政訴訟である。
(麹町中学校内申書事件)
判例は、内申書に、政治活動について書くことは、思想・良心の自由に反しないとしました。外面的な活動から、内面が推察されるということも考えられるのですが、単なる外面から見た事実の記載なので、思想・良心の自由に反しないとしたようです。
労働者の政党所属調査
本件質問の態様は、返答を強要するものではなかったというのであるから、本件質問は、社会的に許容し得る限界を超えて上告人の精神的自由を侵害した違法行為であるとはいえない。
(労働者の政党所属調査事件)
除斥と忌避 | 民事訴訟法
裁判は公正な判決が裁判官によって行われることが求められています。しかし、もし裁判官が当事者の利害関係人だったらどうでしょうか。そのような場合は、裁判の公正が害されることが予想されますね。公正な判決ができなくなる。
ですので、当事者との関係で不適格な裁判官には、裁判をできなくさせるための制度があります。それが除斥と忌避の制度です。
除斥というのは、法で定められている不適格な条件が満たされれば、裁判官を訴訟手続に関与させないようにすることができるというものです。職権と申し立てによって行われます。一方、忌避というのは、裁判の公正を妨げる理由があることを理由にして裁判官が不適格であることを裁判所に申し立てることができる制度です。
裁判官の除斥
除斥の理由がある場合は、裁判官は職務の執行から除斥されます。(民訴23条)
- 配偶者である場合、当事者である場合、共同の権利者である場合
- 4親等内の血族、三親等内の婚族あるいは同居の親族
- 当事者の後見人、保佐人、補助人
- 証人、鑑定人となった場合
- 代理人であった場合
- 前審で裁判を行った場合
裁判所の職権あるいは、当事者からの申し立てによって除斥の裁判が行われます。
除斥や忌避への不服申し立て
除斥や忌避が決定したときは、不服申し立てをすることができません。単に代わりの裁判官が任命されればよいだけだからです。反対に、除斥や忌避に理由なしという決定に対しては、即時抗告をすることができます。
除斥と忌避の対象
裁判官だけが対象になるのでしょうか。それとも、裁判所で働く他の役職の人についても、除斥や忌避が認められることがあるのでしょうか。
除斥や忌避の規定は、裁判所書記官にも準用されます。(民訴27条)
除斥の原因があることを知らずに裁判官が訴訟手続に関与した場合
裁判官が除斥の原因があることを知らずに訴訟手続に関与してしまった場合はどうなるのでしょうか。当然に無効なのでしょうか。一応有効とみなされえて、申し立てによって無効が認められうるのでしょうか。
除斥あるいは忌避の理由がある裁判官が行った職務行為は無効です。合議体である場合は、どうでしょうか。
終局判決がなされた後に、裁判官に除斥の原因があった場合
除斥の理由は、再審事由になります。
支配人 | 会社法
商法では支配人という地位が定められていて、商人に代わって事業に関する一切の裁判上または裁判外の行為をすることができる使用人のこと。
会社法においては支配人という地位が定められている。支配人は、業務を行うが、取締役とは何が異なるのかということを覚えておきたい。支配人が行うことができることは、もちろん取締役が行うことができると考えてよい。
つまり、支配人は取締役からどのような権限を受け、また受けることができるかということを覚えておきたい。それを覚えておくと、支配人の行為は適法かなどを考えていくことができる。
支配人の選任
- 定款で定めた場合
- 取締役会がある場合は、取締役会
- 取締役会がない場合は、取締役の過半数
支配人の選任は、各取締役に委任することはできない。
支配人を選任した後は、登記をする必要があります。登記簿を見れば、支配人がだれかわかります。
支配人の任期
任期は特にない。
支配人の権限
非常に広い権限を持っている。株主や取締役が持っている権限は行使できないが、事業上の権限であれば行使できる。
- 他の使用人を選任、または解任すること
支配人の義務
会社のために一生懸命働きましょうということですね。自ら営業を行ってはなりません。会社のために行います。自分や他人のために、営業に属する取引をしてはなりません。会社のために行いましょう。他の会社の使用人になってはいけません。他の会社の取締役となってはいけません。ただし会社の許可を得た場合は大丈夫。
プライバシーに関する権利 | 憲法
世の中では、個人のプライバシーが公開されない権利というものが認められつつあります。これは、憲法と関連して語られることが多いですが、憲法の条文そのものには書かれてはいません。
ではどの条文を根拠にして、弁護側の主張を論じればよいんでしょうか。また相手側は、何を主張してプライバシーを侵害しているとはいえないと論じればよいでしょうか。
ポイントは、公共の福祉あるいは、対立関係にある人権です。
プライバシー権の根拠になる条文は
プライバシー権を具体的に書かれている条文はありません。けれども、世の中では一般に認められつつある権利があります。このような場合は、憲法13条が根拠として使われます。それは、幸福追求権です。
(幸福追求権)
生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。(憲法13条後半)
これにぶら下がる形で
- 人格権
- プライバシー権 - 私生活をみだりに公開されないという法的保障ないし権利
- 肖像権 - みだりに撮影されない権利
などがあります。
判例研究
「宴の後」事件
宴の後事件の判決では、プライバシー権をひとつの権利として認めることが示されました。「幸福追求権 -> 人格権 -> プライバシー権」という流れですね。
またプライバシーの侵害と呼ばれるものがどのような侵害なのかを説明した判決でもあります。
(プライバシーの侵害の意味)
公開された内容が、事実あるいは事実らしく受け取られる可能性があり、一般人の感受性を基準にして当該個人の立場に立った場合公開を欲しないであろうと認められ、一般の人々にいまだしられていない事柄であることを必要とする
ここでは、一般人の感受性を基準にするといわれていることに注意しておいてください。「一般人なら公開を欲しないだろう」と思われる内容なら該当するという意味ですね。本人を基準とはしていません。
この判例は、表現の自由とプライバシー権の対立をテーマにしています。表現の自由は広く認められるのですが、プライバシー権との関係で、どこに限界があるかということを考える内容になっています。
京都府学連事件
肖像権について裁判所が語った判決です。幸福追求権の一部として、みだりに容姿を撮影されない権利を人は持っていると判示しました。
ただしこの事件では、デモを行っている人の写真を警察官がとったということで違法性が争われました。結論としては、写真撮影をみだりに行われない自由を持っているが、実際の状況における必要性・緊急性・相当性を考慮にいれて、違法とまではいえないと判示しました。
早稲田大学プライバシー事件最高裁判決
学生名簿を無断で警察に渡したことが違法であると判示された。
法律優先の原則 | 行政法
法律優先の原則とは、行政は法律に定められた事柄を越えて活動してはならないという原則。
行政法で使われる場合は、決して、法律が条例に優先するという意味ではない。
原因において自由な行為 | 刑法
罪に問うためには、犯罪の実行時に当事者に責任能力が必要である。しかし、これをそのまま当てはめると、たとえば、自分を泥酔の状態に陥れれ、責任能力を失った状態で、自動車事故を起こした場合に、その人を罪に問うことができなくなる。
普通の人の感情とすれば、泥酔状態で運転したことが悪いと感じるのに、刑法は責任能力がない状態で罪を犯した場合は、犯罪に問えないといっている。これは不公平な感情をもたらす。
そこで原因において自由な行為という理論を用いることで、これを解決する。原因において自由な行為とは、「責任能力がない状態に自分を陥れる行為」を行ったときに責任能力があれば、犯罪の実行時に責任能力がなくても、責任能力ありとみなすことができる理論のことです。
原則的には、行為が行われたときに、責任能力があるということが必要ですが「原因において自由な行為」はこれの例外となっています。